たかやま

令和5年9月5日

館弥平衛の外でゴミを燃やした。その燃える炎の音を今も覚えている。タバコの煙の匂いもした。子どもころの日本の夏の思い出の中で、そのどちらがもっと鮮明に思い出されるのか分からない。祖母は喫煙者ではなかったが、旅館の手伝いの女性はタバコを吸っていた。子どもだった私には、彼女と私の家族との関係がいつも分かりにくかったのだが、忙しい夏の間、彼女はいつもそこにいた。彼女に会う前、私はあんなにかすれた声を聞いたことがなかった。私は仏壇の前で儀式について学んだことを覚えている。そこは、大きな畳の部屋で、私は子供のころ、テレビゲームをしたり、クリップ式ネクタイをつけて法事に参列したりしたことがある。お香屋の前を歩くたびに、私は祖母との静かな瞬間を思い出す。幼い子供には仏壇にあるろうそくの炎のゆれが、手を振って別れる様子を想像させた。館弥平衛で祖母はゴミの灰から生えてきたように見える竹の子を採る方法を教えてくれ、一緒に料理して食べた。食事の後に、わざと茶碗にご飯を残して、それを池の鯉にやった。それはその頃の私の楽しみの一つだった。

館弥平衛は、私の祖父母が1971年以来所有し経営していた旅館である。この伝統的な日本の宿は、数河と呼ばれる遠隔の山岳地帯にあった。祖父は1989年に亡くなり、それ以降、祖母は一人でそこに住み、親戚の助けと、もちろん、かすれた声の女性と共に旅館を経営していた。夏はラグビーチームの合宿シーズンであり、ラグビー場が徒歩圏内にあるため、大柄な男たちのグループが館弥平衛に滞在していた。母と兄と私がアメリカから訪れると、私たちは本館の客室と廊下でつながった別館で寝たが、朝食と夕食は食堂でラグビープレイヤーたちと一緒にとった。祖母は、数十人のゲストのために料理をし、大浴場のお湯を準備して、お客様をもてなした。それは古い旅館に活気を与えた。ダラス市郊外の寝室が四つあるレンガ造りの家で育ったのとは大きく異なる環境だったが、その旅館は私にとってホームのイメージとなった。

私は成人してからは、ほとんどの人生をアメリカの最も人口密度の高い都市で過ごしており、毎年夏休みを過ごすたび、日本の田舎での生活がどのようなものであるかに、ますます興味を持つようになった。大学院に入学した後、私は家族とは別に冬と秋に祖母を訪れるようになった。その間、館弥平衛は静かだった。夏に十分な収益があったため、祖母は夏以外の期間は働く必要がなかった。お客さんがいないと、私は彼女と一緒に庭いじりや料理に時間を費やすことができた。しかし、大男たちが歩き回っていないと、旅館は異なる雰囲気があった。現代のテクノロジーへのアクセスがなく、他の家族との定期的な交流がないと、山間部での生活は孤独だった。私は祖母がなぜそこにとどまったのか疑問に思い始めた。私の母がなぜ去ったのかも疑問に思った。

祖母は83歳のときに館弥平衛の経営を引退し、旅館は別の家族に売却され、彼女はその地域の温泉町にある介護施設に移った。私はボストンから母と一緒に一度、そしてニューヨークから父と一緒にもう一度祖母を訪れた。そのとき祖母は新しいアートアクティビティについて興奮して話してくれた。親戚から送られてきたメッセージや写真は、祖母が温泉町を楽しんでいると伝えた。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックが始まって数か月後、彼女の健康状態が悪化し、最終的には数河から南へ1時間ほどの高山市の病院に移ることになった。

3年前の私は高山についてあまり詳しく知らなかった。高山へは、数河に訪れるたび、祖母が何度か連れて行ってくれた。セガワールドという高いビルのゲームセンターや、デパートの最上階のゲームセンターに行ったことを覚えている。台所を手伝える年齢になったとき、高山のスーパーに行って、買い物をした。隣接する市町村に親戚が住んでいたが、実際には誰も高山に住んでいなかった。しかし、高山は地域の最大の都市であり、必要な医療施設があったので、祖母にとってはベストな選択だった。

私はパンデミック最初の年の親戚関係について、まだ本当によく理解していないと思う。しかし、ダラスの家でサンクスギビングの時に、私の母は突然、今後について話し始めた。母は仕事をやめ、日本のお母さんの世話をして、親孝行をしたいと言う。祖母のそばにいることが特に祖母の健康が悪化した場合に役立つだろうと話した。

母はテキサスでの生活と仕事を愛していた。現実は、入国制限されており、たとえ母が特別に許可をもらい高山に行けたとしても、祖母が病院にいる間に母ができることはあまりなかった。母は自分の母親に何もできないことに対する罪悪感を感じていたが、同時に祖母も母がアメリカでの生活を犠牲にすることは望まないだろうとも信じていた。結局のところ、祖母が旅館を経営していたおかげで、私の母は米国での生活のために数河を離れることができた。

その後数週間、私は祖母を個人的にどのように助けることができるのかを考えた。そのころの私の精神状態は、中に入っている材料が不均一に分散された安物の加重ブランケットの下に埋もれており、自分は自分自身も含め誰にも役に立たない存在だと感じていた。日本の山々での生活を想像することが私の心を高揚させた。

1月に自家製のタコスを食べながら、私は母に日本に行くことを伝えた。「おばあちゃんの世話をするよ。」

母がよくするように、彼女は即座に「それはできない。馬鹿げてること言わないで。」と答えた。

母が祖母のそばに行った方が、私が行くより良いかもしれないが、母が仕事をやめることで失うものがたくさんあるということを私は母に説明した。コロナ禍では日本に行っても、出来ることはあまりなく、祖母のそばにいることに意義があると認識していたので、なぜ私ではいけないのか、と尋ねた。私が話す間、母の表情は注意深い疑念から厳粛な共感へと変わった。私の母は私の年齢くらいのころ、アメリカへの移住を決意した。その時の自分自身を息子である私の中に見ていたのかもしれない。私の涙ぐんだ目を通して見える私の信念は、私が親孝行のようなものだけでなく、自己価値のためにも行かなければならないと彼女を納得させた。母は私がこれをする必要があると分かってくれた。

次の数週間にわたり、私と母は政府のウェブサイトをクリックし、A4フォーマットの書類をレターサイズの紙に印刷した。日本にいる母の従姉に市役所から戸籍謄本を郵送してもらうよう頼んだ。私は9月の東京行きANAの片道フライトを90ドルで購入し、6月にはヒューストンの領事館に行って日本のパスポートを申請することにした。アメリカではパンデミックの制限が緩和されていたので、日本に行く前、夏にカリフォルニアで友人の結婚式を執り行うことが可能になった。2021年の4月までには、何事も順調に行き、不確実性は徐々に消えていった。だが、また突然戻ってきた。

祖母は2021年5月21日に亡くなった。

私はピアスをつけるために二階のバスルームの鏡の前に立っていた。そのとき、母のiPadからLINEアプリの着信音が聞こえた。数秒後、音は止まった。おそらく母は仕事中に電話に出たのだろう。ダラスは午後で、日本では深夜。彼女は日本の人々と連絡を取るためにLINEを使っていたので、何か重要なことが起きたことを知った。私は一瞬立ち止まり、ピアスをカウンターに置いた。数秒後、母からのメッセージが家族のメッセージスレッドで届いた。伯父からの電話で知らせがあったとのことだった。過去5ヶ月間、私は時間との戦いをしていたことを、喉に突き刺されたような感覚で実感した。祖母は、私が日本に会いに行こうとしていることさえ知らなかったと思う。

客室乗務員よりも少ない乗客を運ぶスターウォーズのテーマの航空機の国際便に乗った。それは不思議な感覚だった。14時間にわたるホワイトノイズに耳を傾けながら、私は自分自身に尋ねた。なぜ私は日本に移住するのか。5月から9月までずっと、日本に行くことはまだ意味があるのかについて家族の間で長い議論があった。祖母はもはや私の助けを必要としなかったが、私は祖母の山に行きたかった。日本に行くことで祖母が私を助けてくれるような気がしたからだ。それを当時言葉にすることはできなかったが、それが真実だった。私は祖母の数河での生活について常に興味を持っていたが、彼女についての新たな発見は、私がその質問に答えるためにそこに行かなければならなかったことにつながった。大人になって、歴史と自分の間の連続性を探したが、それが理解できるほど賢くなった頃には、過去はあまりにも古くなっていた。母は私の目を見ないで、背中を押してくれた。

東京での2週間の隔離中に、私はいくつかの章を書いた。私が目標としていたのは、本格的に勉強するために日本に少なくとも1年滞在することで、約束したのは2年以内だった。もし受け入れてくれるならニューヨークの人々の元に戻ることができるだろうと思ったからだった。空っぽの電車に乗って山に向かった。親戚の貴重な指導のおかげで、1ヶ月以内に高山にアパートを見つけることができた。11月末までに、日本の田舎での私の生活が本格的に始まった。

宮川に降り注ぐ最初の雪と最後の桜の花びらの間に、私は高山の歴史や自然について学んだ。学歴は4分の1になり、忍耐力は2倍になった。おばあちゃんのお気に入りのスーパーで買い物をした。私はレジでつまずき、自分がアメリカで両親がアメリカの習慣に従って行動していないことを恥ずかしく思ったことを何度も恥じた。お香屋さんの前を通りかかり、1年目の終わりまでにさらに多くの章を書いた。

私が大学院を卒業する少し前に、母が私の祖母が 祖父の死後、抗うつ薬を飲み続けていると話してくれた。それは私の生涯の間、ずっと飲み続けていたことを意味した。それを知ったとき、彼女が悲しんでいたことを示すような行動をしたかどうか、館弥平衛についての記憶を一つ一つ思い起こした。祖母は物静かな人だったが、山も静かだったので、私はいつも祖母の沈黙を彼女の満足と感じていた。その時点で、すでに祖母は本当の気持ちを話すことができなかった。なぜなら、彼女は老齢のため、その日に編んだものについて話すか、2013年頃に予期せず旅館を訪れたツキノワグマの話を繰り返すことしかできなかったからだ。彼女に、数河で孤独を感じたことがあるかどうか、特にラグビー選手の世話で忙しくないときに尋ねる機会があったのに。この何年もの間に、私は自分のうつ病について何かを学べたかもしれないと思う。

高山はその地域で最大の都市であり、面積では実際には日本で最大の都市だ。主要な駅周辺の地区は営業時間中には賑やかだが、高山は依然として田舎であり、私の人生のこれまでのどの段階の舞台とも対照的である。外部からの承認がほとんどないため、自信を他の場所で見つけなければならない。時差の関係で、私が起きているとき世界は眠っている。私にはなじみのない田舎社会の親しみやすさに私は癒しを感じている。そこでは、祖母についての真実が、私のアパートの通りで醸造されている酒と同じくらい鮮明だ。山は寂しく、祖母が人生で失ったものもあるが、それ以上のものを生み出してくれたことを私は知っている。彼女のおかげで、私はもっと創作できるようになった。

母は、館弥平衛が建てられた通りのすぐ近くで育った。私が母に、なぜ数河を離れてアメリカに行くことにしたのか尋ねたとき、彼女は自分が周りの人々とは異なると感じていたと教えてくれた。彼女は高山までの英語のレッスンのために1時間も運転しなければならないことへの苛立ちを振り返り、母の同世代の人々が外国へ行くことにあまり興味を示さないことに気づいたと言った。世代を通じての同一性が安定性や忠誠心と見なされる場所では、田舎の子供たちが親と同じ仕事をすることが一般的だった。祖母は旅館を経営する前に学校の先生だったので、母もまた教師になった。彼女は教えることに満足を見出したが、生涯を数河で過ごすことは、母が乗りたくなかった回転木馬だった。

母は大学時代にアメリカ体験旅行をした時、日本社会の厳格な規則と厳格な服装規定から離れた自由を感じた。卒業後、母は数河で数年間働いたが、両親の願いに反してアメリカに移住し、家族の近くでのわずかながら安定した生活を放棄した。英語を学び、テキサス州教員資格を取得した母は、異なる文化に興味を持つ若い人々と一緒に仕事をしている。母は大きなアメリカの都市の快適さを楽しんでいる。

私は祖母が今ここにいて、私と母が立場を交換したことの皮肉を理解してくれたらいいのにと思う。祖母は一生懸命働いて、母が山を越えて冒険できるようにした。そして、その母の息子が山の中で人生を始めることを決意した。もし、祖母がそれを知ったらどう思うだろうか?

今月で日本に来て2年目が終わり、自分がした約束を思い出す。時間との競争で一度は負けたが、祖母の死を経て連続性を見出した。私は今、日本でのホームを構築している。歌は私に二つの言語で弔う方法を教えてくれ、私は山を上り下りする新しい方法を学んでいる。私は誕生日カードを書いてくれた友人には手紙を送るが、そうしてくれなかった友人を許す。私は自分自身を美しいもので囲む。日本の田舎の人々が私に毎日もっと背筋を伸ばすように忠告してくれる。私は再び役立つ存在になった。

エスター美保子訳